2014年 2月号


「愛されていますか?」
万好徹治

あなたは愛されていますか?
この質問に胸を張って「はい。愛されています。」と答えることのできる方は、一体何人ぐらいおられるでしょうか。

愛について考える時、私はある家出青年のことを思います。彼を説得して、実家に引き戻した時のことです。

「あなたの息子さんは、お父さんに愛されていないと思って家出したようですが、何とか愛してあげてくれませんか。」

「愛してない?そんなことはないですよ。あいつの着ている服は、私が買ってやったものです。食事も与えて、学校にも行かせているし、何が不満なんですかね?」

青年は愛が実感できずに不安だと言っていました。
食べ物に困ったこともなく、一人部屋が与えられ、また、パソコンや車など十分すぎる程に物は与えられているのですが、いつ捨てられるのかという不安が、常に心の中にあるというのです。


多くの人の愛の概念

日本人が愛するという言葉を使う時、そこに含まれている概念はどのようなものでしょうか。

例えば「愛車」という言葉があります。
他の人が持っていない珍しい車種や、追従装置などの特別な機能が付いたもの、外国ブランドの高級車などは、持っている人に満足感や優越感をもたらしてくれるものでしょう。

私たちは自分にとって価値のある物や利益を与えてくれる物を愛します。

先の青年は、自分の能力や成績が父の要求に合っていないので、愛されないと悩んだのです。


愛が分からなくなった時代

最近よく、「昔は良かった。」という言葉を耳にします。
たとえ物はなくても、どの人もキラキラとした瞳をしていた時代、古き良き時代の日本にあったものは「共感」ではないだろうかと私は思います。

家族そろって田畑に出て働き、稲の成長に一喜一憂していた時、私たちは自分が愛されているかどうかと悩みませんでした。
すきま風に肩を寄せあって眠り、いろりの鍋を分け合って食べていた時、愛されている実感がないなどという不安は、誰も抱えてはいませんでした。

それぞれの部屋を持ち、違う学校や会社に行き、互いに競い合うように宿命されている今の社会では、お互いに共感できる部分は本当に少なくなりました。

一日の大半を離れて過ごす家族。そして社会の価値観を家庭にも持ち込み、自分に益をもたらす存在かどうかが、愛する対象を決める基準となってしまっています。


無条件の愛

さて、神様の価値観は、私たちの物の見方とは違います。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 
イザヤ四十三章四節

能力ではなく、あなたの存在そのものを喜んで下さるお方がおられるのです。

たとえあなたが満足感や利益をもたらすことがなくても、あなたを造った本当の神様は、ありのままのあなたを愛して、受け入れてくださいます。
あなたが、一日も早く神様の愛に気付き、劣等感から解放され、本来の自分を取り戻すことができますように。